読書メモ:日本語は哲学する言語である(小浜逸郎)

読書のメモです。

小浜逸郎著「日本語は哲学する言語である」

第一章 西洋哲学と格闘した日本人

1 デカルトの「疑い得ないわれ」を疑う

 デカルトは思惟する実体と延長を持つ実体に世界を分ける。延長体の資格は、形・大きさ・運動状態の3つ。客観的認識の問題の種をまいた。

2 大森荘蔵の「立ち現れ一元論」

 知覚因果説かを否定して、重ね描きへ。自然のありさまそのものが有情。言葉の実体化作用に引っかかった。独我論者でもあった。

3 和辻哲郎の「実践的行為的連関」から見た人間把握

 人間把握の原点を間柄的存在に求める。世間の人々の交錯の姿を実践的行為的連関と呼ぶ。西欧の人間把握が自我意識の明証性から出発するために、他者存在を認めることが哲学の大問題になったのに対して、日本人にとっては主体と主体との連関は直接の明証であり出発点。ヘーゲルも関係論的な立場。

第二章 日本語は世界をこのようにとらえる

 ヴィトゲンシュタインは、晩年「哲学探究」で「論理哲学論考」を自己批判。世界を論理的空間のうちに閉じ込めているのはヴィトゲンシュタイン自身。

 西洋哲学は情緒の問題をないがしろにしている。デカルトの主観ー客観は、西欧言語のS-P構造(Subject-Predicate)とシンクロ。感情Passionは受苦、感情表現は受動態(Passive mode)が多い。

 認識論哲学は、五感に対する態度の現れ。主客二元図式は、視覚中心主義から来ている。私と世界との関係は本来、知覚と情緒の不可分の結合態として与えられるが、この結合態を客体的な面に沿って抽象したとき、「知覚」としてとらえられ、主体的な面に沿って抽象したとき、「情緒」としてとらえられる。

1 「いるーある」問題

 欧米語にはこの区別がない。「いる」は、その語られている状況に自分自身がひそかに参入して、その状況と「私」とが親しく居合わせていること。「ある」は、距離をとり、当のモノや人を突き放して客観的に眺めたときの、存在や様態を表す。

2 「ことーもの」問題

 長谷川三千子「日本語の哲学へ」。「もの」はすべての具体相を消し去る。「こと」は、語ることができ、語られるに値するはっきりとした輪郭を持った物事、あるいは、もう語られてしまって、共同体のメンバーたちに共有されている物事。「もの」は、語られるべき素材はそこにあるのに、まだうまく「言」にまで育っていず、そのため共同体が、何となくぼんやりとしたイメージでしかとらえられていない物事。

3 「ひとーもの」問題

 「もの」の世界を扱うときにも、情緒を仲立ちとして「ひとびと」に引き寄せられることがらとして了解しようとする強い傾向。

第三章 言葉の本質

1 言葉の本源は音声である

 ①音声は、ほかの感覚と異なり、相当の距離があっても、中間に遮蔽物があっても、相手が後ろを向いていても、伝達が可能。

 ②音声は物理的には音響であり、音響は動き・変化として時間的な持続のもとの現象。共同意識の形成にあずかる。西洋哲学は視覚中心で、「主体に向き合うものとしての対象」という概念があるが、これを拒否する傾向が強い。ニーチェ「悲劇の誕生」の音楽の精神を参照。

 ③「話すー聞く」プロセスを前提しないと、言語として実現しない(完全な手話と先天的な聴覚障害者の書記言語理解を除く)。

 ④生きた「共有ゲーム」の現場である。

2 言葉は世界を虚構する

 ①言葉は事物を概念で括って抽象化するはたらき。

 ②言葉は、それが語られるとき、時間に沿ってラインを引いていくように語られるほかはない(線形性)。

 ③言葉は、世界を分節し、切り分けることによって、私たち自身に分類体系としての世界像を新たに与える。認識作用そのものが恣意的。

 ④言葉の使用が、ものごとを固定化(画定)すると同時に、他方ではものごとを流動化(変革)する効果を持つ。

 ⑤言葉は、実体的でないものごとをあたかも物理的な実体であるかのように思わせてしまう機能を持つ(実体化作用)。心のモノ化。

3 言葉は思想そのものである

 言葉は意思伝達のツール・手段という考え方は難点がある。意思伝達=思想。言語表現というものが「正確に伝える」ということを本旨としていない。聞き手も立派な言語主体。

 時枝の言語過程説は、言語と思想の関係について深く考えていない。

4 言葉の本質

 言葉とは、音声をその本源としつつ、一定の規範の下に自己を互いに投げかけあうことによって思想を形成し、それを通して時間存在としての自分だちを不断に創出し維持し、時には破壊していく営みである。

第四章 日本語文法から見えてくる哲学的問題

1 品詞分類批判

 日本語は膠着語。すべての文はその値が等価な「単語」から成っているという前提を疑わないところから文法的な規定の無理がくる。

 本居宣長は、「玉と緒」。客体化された言葉が玉、主体的な意でつなぐものが緒。本居春庭、冨士谷成章らを経て、時枝の詞辞論へ。玉が詞、緒が辞。詞は「思想を対象化して表現するところのもの」、辞は「思想そのものの直接表現」。用言の活用語尾も「辞」と考えて構わない。厳密に品詞と呼べるものは、名詞、動詞、形容詞の3つ。同一音韻、同一アクセントの語は、偶然の一致を除き、品詞や用法が違っても、もとをたどればほぼ同じ観念やことがらを表している。

「で」:身体行動の設定条件を定めるはたrき

「の」:前の部分を体言的にまとめようとする働き

「が」:話題転換

「から」:出発点

「らしい」:ある物事にふさわしい、似ている、合っている、近い

「そうだ」「ようだ」:その傾向が顕著

「つく」:接触する

「たつ」:急速に離れる

「あげる」:はっきりあらわす

「さす」:鋭く突く

「はなす」:心に秘めたものを外に向かって放出する

2 統治論

 三上章は、日本語に主語はないことを主張。「は」は、題目提示を意味する係助詞。

 時枝は日本語の構造を「風呂敷型」「入れ子型」と名付けた。述語を中心に構文を見る。

 金谷武洋は、日本語の構造を「盆栽型」、欧米語の構文を「ツリー型」と分類。

 述部中心ということは、人がある状況文脈の中にいて言葉を発する際の原始性がよく保存されている事実を示す。日本語は状況依存型。タミル語も日本語に近い。孤立しやすい地理的な条件下にある地域が、共通して言語構造の古形を保存している可能性が高い。

 日本語は虫の視点、欧米語は神の視点。

3 テニヲハ論

 上から下へ続く続き方(風呂敷の縛り方)を決めている。

4 指示論

 人称代名詞がない。①人称、性、数によって述語や修飾語が影響を受けない、②各人称にさまざまな呼称があって一定しない、③単語としての格変化を起こさず、助詞をつけることで自由にどこでも使える、④再帰代名詞、再帰用法が存在しない。

 代名詞は「ゆびさす」ところに本質がある。コソアドは、話し手の空間的な距離によって使い分けられているのではなく、「こ」は自分の手元や勢力範囲、「そ」は相手の手元や精力半い、「あ」は両社の勢力圏からはさしあたり離れているものごと・互いに共通理解が成立するものごと。日本語が相手との関係を重んじる言語であることを示す。欧米語にはコソアドのような人間関係を基盤においた体系性はない。「認識の発達」と「関係の発達」が必要。

5 名詞化論

 日本語の多くの詞辞は、名詞的な使われ方に収れんする。動詞の連用形が、ほとんど名詞として通用する。「緒」の部分が丸まって固化し「玉」になり、その固化とこれまでの「玉」を受けて新しく「緒」が付け加えられ、次々に統一性を再編成していくイメージ。

6 関係意識論

 金谷は、受け身の助動詞「る・らる」と使役の助動詞「す・さす」とを両極として、その間に自動詞、他動詞とをこの順で挟み、全体を連続線上に並ぶシステムがあるとする発想を打ち出す。自然の勢い←→人為的意図的行為。受け身は、人為では抗いがたく自然にそうなってしまうという意味合いがある。

 接頭語、接尾語、終助詞が豊富で、繊細な関係意識の形成にあずかっている。

 日本語の関係意識の表現は、総体として人事にかかわることを中心としつつ、「ひと」に対して向けられた表現をも「ひと」以外の物事に拡散させていこうとする志向性を持っている。「人事を離れて言葉なし」。

7 日本語と時間

 時間的な「さき」と「あと」、「まえ」と「うしろ」が、過去と未来の両方にともに使われる。「あとを振り返るな」が過去になるのは「足跡」という意味合いで、遅れてやってくる時間というのとは違って、また必ずしも過去の時間というのでもなく、「歩みが刻みつけたこと」ということがらそのものを意味。「ずっとまえ」が過去になるのは難解であり、英語でもbeforeは空間的には体の前方であるが、時間的には過去を示す。

 品後が主観的・主情的な「いま」を中心に組み立てられていることを表す。時間表現の場合は、特に自分(個体)の身体性が原点。

 「た」は、単なる過去や完了の事実を示す言葉ではない。話者の観念の内部での、過去と現在のつながりの意識を表す。回想、了解済みの事実、回復、決定したこと、既知のもの。

 現代日本語には、カレンダー的な意味での客観的な過去、現在、未来を区別する明瞭な語(辞)は存在しない。古語の「き」「つ」「ぬ」「けり」「り」「たり」も、話し手主体の現在の思い(思想)の表白。山田孝雄の日本文法論、文法形式上の時というものは存在せず、ただ思想の状態の区別(直接表象、復現表象、想像表象)があるだけである。

8 文論とパロール論

 日本語に即した文論を新たに構想するためには、①日本語は主語を必要としない構造をしているという認識を徹底させる、②述体の句(理性表現)、喚体の句(情緒表現)という二分法によるのではなく、話し手ー聞き手の関係から規定される、主体の意識モードによる分類を考えるべきである(陳述文、疑問文、依頼文・命令文、感動文・喚起文)。

 生きた会話では、規範にもとづきながらも、「正しい文法規範」とは全く次元の異なる高度な水準で全体の流れが構成されている。

第五章 語りだけが真実である

1 真理・真実とは何か

 省略

2 現象が「事実」や「真理」になるための条件

 省略

3 事故や犯罪事実も「語り」によってこそ支えられる

 省略

4 近代科学の信憑性

 a.理論的仮説、b.実験や観察の繰り返し、c.例外のなさへの確信、d.論文発表、e.他者の追試による再確認、f.権威ある専門家・専門機関の認定という過程において、言葉が関与しない部分はない。抽象化された記号によるこの「語り」のスタイルは、ある特異な「哲学」なのであり、世界に対する人間の接し方の一つ。

5 太宰治の「新郎」「十二月八日」、落語の語り 

 日米戦争を語りの素材にしてしまう醒めた目が文学者としての太宰の本領。

6 「ものがたり」のしくみー「竹取物語」

 人力を駆使することの空しさ。

 ①石作の皇子は仏の御石の鉢。修行や研鑽。

 ②くらもちの皇子は蓬莱の玉の枝。知力や技術力。

 ③阿倍の右大臣は火鼠の皮衣。金力。

 ④大伴の大納言は龍の頸の珠。権力や武力。

 ⑤石上の中納言はつばくらめの子安貝。誠実さ、人の好さ、善意。

 当時における「歴史記述」。

7 いわゆる「歴史認識」について

 歴史記述はもともと一種の無限のパロディ。歴史の共有は、言語と情緒を共有できる範囲でしか可能ではない。グローバルな歴史認識は不可能。

 和辻哲郎は、ことが同時に「言」も表す事実に注目。なぜ、事がじつは言であることを通してしか実現しないと古代日本人が考えたのか、どんな普遍的な世界了解が含まれているのかといった問題への道を開いた。「ものーことーもの」分析は、日本語でなければできなかった。話者と聞き手によって共有された物事は、同じ言葉を話すものたちによる共同体の存在を前提としており、この前提にもとづいて共有された物事は、神話であり、物語であり、歴史であり、生活文化でもあると理解すれば、間柄的存在としての人間、実践的行為的連関としての「この世」という世界了解のイメージが鮮やかになる。