宮沢賢治と農業 H26.9.1日経

今日の日経からです。

宮沢賢治も、農業のコメ依存から脱却しようとしていたということで、日本農業は100年間も同じような試みを続けていたのに、いまだにコメ依存は変わらないという現状に、驚きを禁じ得ません。

農業と医療が結びついていたところも、面白い視点だと思います。

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岩手の詩人、宮沢賢治と農業との関わりは、1933年の死去直後から語られてきたオーソドックスな研究テーマだ。賢治の詩や童話を読めば、当時にとれた作物や地質学に裏打ちされた化学肥料、冷害や飢饉(ききん)などの農作環境について書き込まれていることがすぐ分かる。しかしその読まれ方は十分とはいえない。

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 新たな視点を提示

 私は行政の統計資料や専門書などから、農業をめぐる当時の岩手の状況と作品を付き合わせ、新たな賢治像や読み方を提示できないか、10年にわたって研究を続けてきた。賢治の背後にある現実を切り離すのではなく、作品を農村事情や社会情勢といった「面」の上で捉える試みだ。

 「雨ニモマケズ」で知られる賢治は、一般には「孤独」や「天才」といったイメージがあるかもしれない。ただ、賢治は、戦前の主要な農業団体であった郡・町村単位の「農会」に顔を出し、任意加入の団体「産業組合」の会合にも参加していた。それだけで、現実に生きた賢治の姿が浮かんで来ないだろうか。

 産業組合は組合員の出資により、低金利の貸し付けや肥料などの共同購入、農産物の販売を行っていた。いわば農協の役割だ。「日本産業組合論」(井上晴丸著)によれば、組織を束ねる連合会の数は「産業組合法」公布の1900年から25年で200に達している。賢治の詩に「産業組合青年会」(24年創作)というものがあるが、これは盛り上がる組合の動向に反応して書かれたもの。

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 花の栽培は事業開拓

 詩では「部落部落の小組合が/ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒(わか)ち」との構想が記される。医療事業は当時、他県ではあるが実際に組合の事業としてあり、その後、東北地方にも広がった。当時の資料と付き合わせれば、賢治の作品がいかに社会の動きと密接であったかが分かる。

 花巻農学校の教師を務めた賢治は26年の退職後、自炊生活を始める。教え子や周辺の農民を集め「羅須地人協会」を設立。化学肥料の相談に加え、チューリップなど観賞用の花の栽培を試みる。この事情は意外にも、新潟県の「農会報」をひもとけばよく分かる。

 25年1月の会報では「花卉栽培収支調査」との記事がある。つまり、新潟では観賞用の花の栽培が事業として成立していたことが分かる。賢治は農会に赴いては全国の会報を読み込んだ。農業における先端事例を岩手でも試みたのだ。エキセントリックにも見える賢治の農業は、実は現実的な視座に基づいたものだ。

 当時の岩手は定期的に冷害に見舞われており、米の不作による飢饉の悲惨な状況は、賢治の原体験となった。賢治は1896年生まれ。「岩手県統計書」や「岩手日報」によれば、「県の農作物収穫高」は1902年と05年に大凶作となっている。家族の離散や人さらいの様子が描かれた童話「グスコーブドリの伝記」は、そのシリアスなリポートでもある。

 童話では、下書き原稿を改稿する際「毛の長い兎(うさぎ)を千疋以上飼つたり、赤い甘藍(かんらん)ばかり畑に作つたり」する「山師」の挿話が加筆される。これは重要なポイントだ。自発的に、付加価値の高い商品作物を生産する農民が描かれているのである。

 実際に賢治は自分の畑で、トマトや白菜、タマネギなど、販売を視野に入れた商品作物の実験的な栽培を試みていた。賢治は浮世離れした「詩人」ではなかった。幼い頃に飢饉を目の当たりにし、農会や産業組合の動きと同じくして、米作への依存に相当の危機感を持っていたのである。

 賢治の作品は小学生の頃に出合った。私は東京生まれの横浜育ち。農業とは縁遠いが、遠いゆえにひかれていた。

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 農業体験からヒント

 「賢治」と「農業」が結びついたのは、大学の卒業論文だ。大学院生の時には農業体験に参加し、有機農法を行う方に話を聞いた。「賢治の農法は大量生産を前提とした化学農法だ。けれど農村の豊かさを目指した精神には学ぶところが大きい」という言葉が心に残った。賢治の思想と現代の状況は、どうつながりどう切れるのか関心を持ち、現在のアプローチにつながった。

 昨年、「宮沢賢治の農業と文学」という初めての著書を刊行し、名誉なことに今年の宮沢賢治賞奨励賞に決まった。農業と文学に格闘した賢治にならって、私も学者としてその道をたどるつもりだ。

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